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会長 Diary

教育への思いを徒然につづった日記帳

「孤人」の時代に  ー今年最後のブログとしてー

12月25日の日曜日。薄曇りの朝だ。

あと1週間。次の日曜日が元旦だ。正直まだピンと来ていない。

この年の瀬に、心配事が次々と起こる。

糸魚川の大火は、なかでも痛々しい。ラーメン店の空焚きが原因で出火、乾いた強い風にあおられて、一気に広がった。

二日間にわたって燃え広がる様子は、戦争時の空襲を想像させるようだった。東京大空襲などを。

「この時期に・・・」とつぶやく被災者の方をTVで見ると、気の毒過ぎて言葉が出ない。

 

そんな不安な年の瀬、今朝の朝日新聞の朝刊2面で「孤立の末に弱者排斥」というタイトルを目にした。

アメリカの大統領選後に、移民、黒人、性的少数者に対する嫌がらせ行為や脅迫行為が増えている、という記事。

もう一つが、相模原の障害者殺人の容疑者の話だ。容疑者は精神異常者でも、快楽殺人者でもなく、「今の社会にとって『正しいこと』をした」と思っている、という記事だ。

そして二つの記事の共通点として、タイトルの「孤立の末に弱者排斥」となっている。

社会との絆を失った、「個人」ではなく「孤人」。

孤人の拠りどころは、社会や国家へ向かう。社会や国家の敵を倒すことによって英雄になろうとしているのか・・・と。

弱者を社会や国家の敵とみなす空気が周りに漂っていないか、と警鐘を鳴らしているようだった。

 

日本は、もう相当に生き詰まっている。

私たち団塊世代が数年後に後期高齢者となったとき、さらに社会的弱者という存在が急増する。その対策が来年度の国家予算にも反映されて「高齢者の自助」の方針が打ち出されてはいる。

しかしこれは、気休め程度の対策にしかならない。

「社会的弱者」を「困ったもの」ではなく、社会的な事実として、国として受け入れ、根本的な対策をとることだけが対策だ。

なぜなら、人間だれでも弱者にならないものはいない。人によってそのタイミングが違うだけだ。

生まれたときから重い障害を持った人、突然病気に倒れ障害者になった人、高齢になり体が不自由になった人、・・・心身の不自由さは、いつだれに起こるのかわからない。でも必ずそんなときが来る。だれにも。

その対策が、今この国にシステム化されているとは思えない。

昔の、高度経済成長期にあったセーフティーネットを、ずっと切り崩してきただけで、対策は無かった。

 

では今、抜本的な対策はあるのか?

わからない。でも言えることがある。

「教育」の力だ。教育の目的は「生きる力」。

自分が生きる。同じように他者が生きる。そのことを尊重し合える教育の力を信じたい。

今年最後になるだろうこのブログに、「孤人」という文字から、そんなことを考えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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