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会長 Diary

教育への思いを徒然につづった日記帳

自己責任社会という、不安

4月23日の日曜日。

この数日風邪気味で、二日間ウォーキングを休んでいた。

今朝歩くと、川沿いの道は、すっかり新緑の世界だった。ほんの少し前、桜の花びらが舞っていたところが。

緑色にもいろいろな名称があるが、自然の中の緑は、それよりはるかに微妙で、繊細で、数が多いのだろう。

 

「何が起きるかわからない」「先の読めない」社会と言われる。

「高齢化社会の今後」、「AI(人工知能)の技術開発の行方」、「貧困格差の拡大」、「未婚社会」、そして今朝の新聞で見た「正社員消滅」という言葉もある。

「わからない」「読めない」は、「不安」と同義語だ。

そして「わからない」のは、高齢者も、大人も、若者も、子どもも同じだ。そんな時代だ。

でも、いけないのは、「わからない」で済ますこと。

なぜなら「済まない」から。

 

世の中、急速に「自己責任化」している。

仕事がバリバリできて、充実している人たちは当然のことと受け止めるだろう。

しかし、その「自己責任」がすべての人に求められる時代になろうとしているような気もする。

社会的弱者と言われる人たち、高齢者にも、障碍者にも、病人にもだ。そして若者や子どもたちにもだ。

高齢者の10年後の行き詰まりは、私が言うまでもない。

障碍者の問題は、ずっと継続して存在する。これからも。

また、30歳代の未婚率は、男性の50%弱、女性も30%を超えるらしい。その理由に貧困がある。(結婚すると生活レベルが下がるというのが理由らしい)

そして、その独身者の8割が親と同居している。

自己責任の自己の中には、家族というところまで含まれるらしい。

 

これでは、不安だろう。

最近、GRIT(やり抜く力)という言葉が言われる。私も使っている。ビジネスの世界でも、学校でも、大切な言葉だと思う。

しかし、やり抜くためには、その理由が必要だ。

本当にそうしたいという、熱い思いが。生きたエビデンスが。

そこんところが抜けたGRITは、強制とか圧力に近い。

社会の中に、最低限の「安心」という絨毯を敷いてからではなかろうか?自己責任を全世代に問うことは。

その意味では「自己責任」という言葉は、冷たい。

「原発の自主避難者は自己責任」と言った事実を、そのままにしてはいけない。

自分に迫る自己責任に抗うことができなくなってからでは、もう遅いのだ。不安の次に来るのは、諦めだから。

 

 


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